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女に達観!これが25年早かったらなあ

2016年12月4日「日曜日」更新の日記

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私は、(自分を俗物だ)と思い、時々反省する。66歳、この歳になって、女性にモテるなんて。何の意味もないじゃないか。若い時は、自分の好みの女性にモテなくて、さんざん苦労したのに!(いや、好きで結婚した糟糠の妻は別で、他の女性を考えるのは遊びであり、これは男の悲しい性というべきか。芸術家は多くの美しい人に魅かれるので、“ここでは私は文学者”ちょっとだけ目をつむって読んでいただきたい)。役に立たない老人になってから慕われても、もう遅い。なぜなら、この歳になると身だしなみがよくなり、恋愛などより世の仕組みや道理に興味があって、男と女がからむことなどどうでもよくなるからである。別に、偉らぶっているわけでもない。頭と体は、異性などいなくても、不足は考えない域に達してしまった。つまり、無理に言えば、“女性には達眼できた。迷いはない”のである。若い時から私は、いつも女性にあこがれを持ち、興味を持った。それも、現実には存在しないのではないかと思うほどの、美しく知的な女性を求めたのである。ろくに勉強もせず、スポーツもせずに、恋愛小説と美しい人にうつつをぬかしていた、といっていい。だから、自分を俗物と言ったのである。その私か、ある日突然、頭の中から女性の映像が消え、平穏な生活ができるようになった。お蔭で、草は草に見え、花は花に見えて、ありのままの世の中が見えるようになったのであるが、時すでに遅し。変な生き方をしている内に、終点に着きそうになり、あわててアクセルを止めて、ブレーキをかけている。文学は妄想であり、実業はお金と人の闘いである。だから、小説家は変人になるし、事業の成功者は厚みのある人間となる。これは、私白身よく解っている。解っていても、私自身が文学を捨てきれないのは、何だろうか。おそらく、心の中の叫びがまだ足らないのであり、社会の不実への追求が未解決のためだろう。それにしても、女性に対する想いは、何と悩ましく、美酒の味がしただろうか。ただ、いくら素晴らしくとも、それに対する執着は長すぎた。もっと早く卒業して、他の方面で心を磨き、悟りを開くべきであったろうと思う。一言でいえば、男の仕事への没頭であるが。達観が早ければ早いほど、男の厚みと深さができただろうに……。そう思いながら、可愛い女性が来たら3歩ぐらい離れて、美しい花として眺めるには違いないのだが、それでも長年の自分の弱さを知っているので、まちがっても接触しないように、自分勝手に気を遣っているのである。

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