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意外と早かった消費者の時代

2018年10月8日「月曜日」更新の日記

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喉もと過ぎれば熱さを忘れる。つらい思いも、時が経てば薄れる。今や何不自由なく暮している私も、昼飯しの弁当がもらえず、学校の昼食時間中は校庭で遊んでいたのは、たった50年前の話。40年前は学費がなくて、毎日働いていた。今や日本は社会が豊かになり、自然に振舞っているが、豊かな人の心得がないから、他国の人には傲慢不遜に見える。そんな中で、賃貸物件を借りる際の借主の立場が余りに弱くて、(これではダメだ。何とかしなくては)、と私は思い、不動産業の貸す側の仕事をしながら、あえて"アパ・マン得する88の借り方"をゴマブックスから出版したのは、まだ5年前のことである。当時の借り手は消費者としての意識が皆無に近く、何を要求するでもなく、何の交渉をするでもなく、簡略にいえば、不動産業者や家主の言いなりになっていて、丸め込まれていた、といっていい。大金を払って部屋を借りるくせに、同じ土俵に上っていたとはいえず、一段下の所にいて、しかも貸す側の条件を飲みにし、ひたすら従順だった。ひどい扱いを受けていたのであり、例えていえば、後進国大陸の極貧の民が白人の出す一にぎりの食糧のために、詐されてうつろな眼であきらめる――という状態とでもいおうか。それ程ひどかったのである。日本人は、日本人のこの部分の性格のゆがみを気付かなくてはいけない。このゆがみは、必要以上に思いこむ情緒主義からくる。情緒を重んじ過ぎると、軸から外れすぎて、右に揺れ過ぎたり、左に揺れ過ぎたりする。そして、社会全体の意思が常軌を逸脱する。"古池や蛙飛びこむ水の音"、これが元凶である。私は俳句や詩は得意な方だが、何の変哲もなく何の意味もないこの俳句の風流を追求するのは、外国人には解せないし、何の意味もない。それを無理矢理意義づけようとする姿勢に、とんでもない不合理を産む基盤が隠されている。私か言いたいのは、利口でまじめな日本人が、5年前まで何故一人前の借りる姿勢をとれなかったか、ということである。加えて、今や過保護でしつけのされてないパソコン通の若者の時代。借りるのに、自分勝手に考えて、権利の枠をとび越えて何でも言ってくる。これも片寄り過ぎである。だが、これほど早く借主が正当な消費者に変身しようとは……開けてビックリではないが、仕掛けた私の方が、目を丸くしている。借主である消費者は、仲介人である私に、あれをして欲しい、これをして欲しい、と言ってくる。本当は救世主のはずの私は、防戦一方、これも時代の皮肉だろうか。

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