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江戸と浪花の借地権と相続税路線価

2020年1月1日「水曜日」更新の日記

2020-01-01の日記のIMAGE
江戸時代の中期には新田開発が盛んであった。その場合、現在のデベロッパーの役割を荷なったのが豪商であり、幕府に願い出て、たとえば海岸先を埋立てて新田を造成する許可をもらう。そのとき豪商のする仕事は、遠浅の海に堤焼を築いてこれを切り、灌漑用水路などを設置し、竣工認可を得てその土地の地主となる。そして、これを農民に小作料をとって致命する。しかし農民の方では、賃貸したもののそのままでは使いものにならない。そこで農民は自力で肥沃な土をどこからか買ってきて、その農地に運び入れ耕作をする。そうすると農民の運んできた土は農民のものである。しかし、その土を置いた地盤、その土地を潤す水、海水から守る堤塘は地主のものである。そういう状態における農民の、その土地に対する権利を上土権といった。その状態を実によく表現している言葉ではなかろうか。それとの関係で、地主の権利を底地と名づけたのであろう。また、山にトンネルを掘り、草木も生い育たぬ荒蕪の地に遠くのほうから、たとえていえば愛知用水のように灌漑施設をつくる場合もあった。その場合も、その用水を使って開墾すれば農地になるが、そのままでは作物はできない。そこで、これを借りた農民は、その荒蕪の地に鉄を入れ、心血をそそいで耕し肥沃の土地とした。このような状態の農民の権利を鍬先権と呼ぶこともあった。いずれにせよ、これは地主と農民との協力によりつくられた農地であり、江戸時代を通じて、一般の小作関係とは違ったより強い権利が農民に認められてきた。しかし、明治民法で所有権者を一人にしようとしたとき、どちらに地券を交付しようかという段になって、政府もほとほと困惑したようである。結局、地券は地主に交付され、開墾に協力した農民の権利は著しく低下した。その権利を回復するため、百姓一揆や訴訟が多発したが、真に回復するのは、2・26事件を契機として突入していった第二次世界大戦における食料増産の要請と、そのために用意された自作農創設の準備、その準備を背段として行われた戦後の農地解放まで待たなければならなかった。

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